エグゼクティブ・サマリー
2026年2月末に勃発したイラン戦争とホルムズ海峡の事実上の封鎖という「史上最大の石油供給ショック」に直面しながらも、金価格は一時最高値から約25%暴落し、市場に衝撃を与えました。地政学リスクが極まる中でなぜ「有事の金」が売られたのか。本稿では、インフレ再燃と金利高止まりを警戒する短期マクロ要因主導の「神話崩壊論」と、世界的な通貨膨張を根拠とする「長期強気論」の対立軸を解き明かし、今後の資産防衛における真の変数を提示します。
地政学リスクとマクロ経済の相克:なぜ金は売られたのか
2026年3月、世界のエネルギー市場と金融市場は未曾有の混乱に見舞われました。米国およびイスラエルによるイランへの軍事行動を契機に、世界の石油消費量の約20%(日量約2,000万バレル)が通過するホルムズ海峡が事実上封鎖されました。国際エネルギー機関(IEA)が「史上最大の供給混乱」と警告し、過去最大となる4億バレルの緊急備蓄放出を決定する事態となっています。通常であれば、このような極端な地政学リスクの顕在化は「有事の金」への逃避買いを誘発します。しかし現実には、1月下旬に1オンス=5,594ドルという過去最高値を記録していた金価格は、3月23日には一時4,097ドルまで急落し、最高値から約25%もの暴落を記録しました。週間下落率としては1983年以来の大きさです。
この逆説的な値動きの背景には、原油高が引き起こす「インフレ再燃」と「金利高止まり」への強い警戒感があります。原油価格(ブレント)が1バレル=100ドルを突破して高止まりする中、米連邦準備制度理事会(FRB)による年内の利下げ観測は急速に後退しました。CMEフェドウォッチによれば、戦争前にはゼロだった10月までの利上げ確率が約25%にまで跳ね上がっています。ING銀行の分析が示すように、地政学リスクそのものよりも、それがもたらすインフレショックと米ドル指数(DXY)の上昇、そして実質利回りの高止まりというマクロ要因が短期的な価格形成を完全に支配しているのが現状です。さらに、株式市場の下落に伴うマージンコール(追証)に対応するため、流動性の高い金が換金目的で売却されたことや、中東の産油国自身が資金捻出のために金を売却したことも、二重の下押し圧力となりました。
短期マクロ主導派と構造的強気派のデータ差分分析
現在の金市場では、マクロ経済の逆風を重視する陣営と、構造的な需給を重視する陣営の間で、将来予測に大きな乖離が生じています。この対立は、各機関がどのタイムスパンと変数を重視しているかによって生じています。
短期的なマクロ要因を重視する陣営は、金利とドルの動向を根拠に慎重な姿勢を崩していません。HSBCは年末の金価格を4,450ドル、スタンダード・チャータードは4,488ドルと予測しており、ロイターがまとめた30人のアナリストの中央値も4,746ドルにとどまっています。フィッチ・ソリューションズ傘下のBMIは、安全資産としての配分からマクロ要因主導のポジショニングへのシフトが一段と強まれば、ドル高基調やFRBの金融緩和観測の後退が相場材料の中心となり、さらなる下振れリスクがあると警告しています。実際、上場投資信託(ETF)からの資金流出は続いており、投資家心理の冷え込みを裏付けています。
一方、構造的な強気派は、今回の急落を「健全な調整」あるいは「歴史的な買い場」と位置づけています。JPモルガンは、直近のボラティリティにもかかわらず年末目標の6,300ドルを維持し、投資家に保有の継続を推奨しています。ウェルズ・ファーゴも6,100ドルから6,300ドルのレンジを予測しています。中国の匯泉基金(Huiquan Fund)の首席エコノミストである陳洪斌氏は、金価格上昇の根本的な原動力は「世界的な通貨の過剰供給」にあると指摘します。2000年に約4兆ドルだった世界の主要通貨供給量が2026年には52兆ドルまで膨張しており、法定通貨の価値下落というメガトレンドは不変であるとの見立てです。また、1月の世界の中央銀行による金純購入量は5トンと前年平均(27トン)から減速したものの、新興国を中心とした「脱ドル化」の動きは継続しており、価格下落局面はむしろ彼らにとって絶好の押し目買いの機会を提供していると分析されています。
今後のシナリオ分岐と資産防衛の要諦
原油市場の先行きについても専門家の見方は分かれています。ゴールドマン・サックスは「史上最大の供給ショック」として2026年のブレント平均価格予測を85ドルに引き上げ、3月・4月は110ドルで推移すると予測しています。対照的にバークレイズは、4月初旬に事態が正常化すれば年平均85ドルに落ち着くとする一方、混乱が5月末まで長引けば110ドルまで上昇するとのシナリオを描いています。もし原油高が長期化し、スタグフレーション(景気後退とインフレの同時進行)の様相を呈することになれば、初期の流動性確保の売りが一巡した後、金は再び究極の富の保存手段としての輝きを取り戻す可能性が高いでしょう。
ビジネスパーソンや投資家にとって重要なのは、「有事=金買い」という単純なアルゴリズムを捨てることです。現在の市場は、地政学リスクがインフレを経由して金利と通貨価値にどう波及するかという、複雑な連立方程式で動いています。短期的には、米国のインフレ指標(PCE等)とFRB高官の発言、そしてDXYの動向が金価格の方向性を決定づけます。しかし中長期的には、膨張し続ける法定通貨システムへのヘッジとして、実物資産である金の戦略的価値は揺らいでいません。ポートフォリオのボラティリティを管理しつつ、マクロ経済のノイズに惑わされない長期的な視点での資産防衛が、今まさに求められています。
出典: IEA (2026年3月20日), Reuters (2026年3月23日), Finance Magnates (2026年3月25日), ING THINK (2026年3月20日), Global Banking & Finance Review (2026年3月26日), AP News (2026年3月24日), 風傳媒日本語版 (2026年3月26日)
免責事項: 本記事は情報の提供を目的としたものであり、投資勧誘を意図するものではありません。最終的な投資判断は必ずご自身で行ってください。
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